西の岸に立ち、彼はただ大切な少女のことだけを想い、手を動かしていた。別れの日にボロボロと涙を零す子供みたいな顔が、いつまでも頭に焼きついて離れない。この一年、心に思い浮かべた少女は泣いてばかりだった。 出会って、好きになって、ずーっとそばにいて、輝くような笑顔を誰よりも近くで、誰よりも沢山見てきたのに、その笑顔が思い出せない。ふにゃりとしまりなく笑う顔も、頬をふくらませて怒る顔も、眉根を寄せて珍しく考え込む顔も、全てが最後の泣き顔に塗りつぶされてしまったようで、彼は苛々と呟いた。 「不愉快だ」 だから、また塗りかえに行こう。あの愛しい笑顔で。 彼はそのための呪文を唱えた。 東の岸で彼女は目を丸くして、立ち尽くしていた。ほんの少しでも近くにいたくて部屋を飛び出したら、突然目の前に橋が架かったのだ。とても頑丈そうな橋の先は西の岸へと続いている。 これを渡れば会えるかもしれない。そう思ったときにはもう走り出していた。 (急がないと…!) 息が切れ手足を重く感じながらも走り続けた。何しろこれだけ大きな橋だ。すぐに誰かに見つかって天帝の耳に入るだろう。そうなれば連れ戻されるかもしれない。 せめて、一目でもいい。疲労で俯きかけた顔を上げた少女の目に飛び込んできたのは― 「ルートヴィッヒ!」 「ヘンリエッタ!」 ルートヴィッヒは信じられない気持で名前を呼んだ。 走り続けるのが無謀だということは、この橋を具現化した自身が一番理解している。それでも逸る気持ちを抑えきれず走り出し、限界だと思い始めたときに求めてやまなかった姿を見た。何故ここに、と疑問が浮かんだのはほんの一瞬。あとはもう疲れなど全て忘れ、ただ夢中で駆けヘンリエッタを抱き締めた。腕の中閉じ込めたまま橋の上に座り込む。 お互い何かを言おうとするが、切れた息の下で言葉にならない。走ったせいで乱れてしまったらしいふわふわした赤毛を、ただ指で優しく梳いてやった。ヘンリエッタも甘えるようにルートヴィッヒの肩に頭を預けた。 「ヘンリエッタ、ずっとお前に会いたかった」 「私もよ、ルートヴィッヒ」 ようやく整い始めた息に乗せて、ただそれだけを伝え合った。 「お前、どうしてここまで来たんだ?」 「どうしてって…」 どれだけそうやってくっついていただろうか。不意にルートヴィッヒが尋ねてくる。戸惑って顔を上げた少女はその顔を見てギクリとした。 「向こうで待ってたって良かったのに…そんなに僕に会いたくて仕方なかった?」 嬉しそうに目を細めて、楽しげに口元が緩やかな弧を描く。意地悪を言うときに、ごく稀に見せる表情だ。ただしこの顔のときの意地悪は普段の何倍も性質が悪い。囲い込むように逃れられないようにして、蜜みたいに甘い声で耳元で囁かれる。からかわれているだけだと自分に言い聞かせても頬は熱くなるし、体が小さく震えた。 「し、知らないわ。大体向こうで待っててもよかったって、一体どういうことなの?」 「…お前、本当に何も聞かされてないのか?」 ほんの少し身を引いたルートヴィッヒの訝しげな問いかけにヘンリエッタは頷く。こっそりと深呼吸をする少女とは対照的に、盛大なため息を吐いてどういうことか説明してくれた。 曰く、ヘンリエッタと引き離されたルートヴィッヒは幾度となく天帝に訴えかけ、様々な無理難題をクリアして末に一年経った今日、会いに行くことを許されたという。 苦労したのは僕だけか、と不満をもらすルートヴィッヒにごめんと両手を合わせて謝る。そんな少女を見て、ふと先程の微笑みを浮かべたルートヴィッヒが、そう思うなら、と甘く囁いた。 「キスをして、お前から」 「なっ!?」 一瞬で頭に血が昇って、静かになったはずの鼓動がまた騒ぎ出す。思わず唇を押さえて固まったヘンリエッタに小さく吹きだしてしまう。 「…冗談だよ。そこまで動揺するな」 「な、なーんだ…そうよね、冗談よね!」 ほっとしたように胸の前で手を合わせて息を吐く。こうまであからさまに安堵されると多少面白くなくて、冗談じゃない方がよかったか、と重ねて言ってやりたくもなるが…まあ泣かれているよりはいい。 「でもお願いがある。 ヘンリエッタ…笑って。僕に、僕だけに笑顔を見せて」 その温かな笑みを忘れてしまった僕に、二度と消えることのないように刻みつけて。 縋るような響きの声が、微笑んだ顔が切なくて寂しそうで。ドキドキする胸に手を当てて大きく息を吸った。笑えと言われて笑えるほど器用じゃない。自分にとって笑顔は、楽しいとき嬉しいときに自然に溢れてくるものだ。 「ルートヴィッヒ、会えて、本当に嬉しいわ」 僕もだ、と語る瞳が、とても綺麗でまた嬉しくなって。 私から、キスをした。 「そういえば不思議よね」 「何がだ?」 「ルートヴィッヒはずーっと真面目に働いてたのに、何で別れろ!なんてことになったのかしら?」 「お前、今さらその話か。当たり前だろ、僕は遊び暮らしたりなんかしない。絶対にお前との暮らしを邪魔されないようにするつもりだし、実際そうしてきた。 だけど天帝が、一人娘のお前を取られたのが悔しかったんだろう。だから言いがかりにもなっていない言いがかりを付けてきたんだろうな」 「まさか、だってルートヴィッヒに会わせてくれたのは…」 「お前があんまり僕にべったりなのが気に食わなかったんじゃないか」 「べ、べったりなんかしてないわ!」 「ふーん…さっきは自分からキスしてくれたのに?ま、頬にだけどな」 …ルートヴィッヒを最初らへんのまだ照れたりしていた頃のイメージで書くか、霧の使者以降のえ、お前どうしちゃったの??のイメージで書くか悩んだ末に …後者で書きました。ら、こんなことに。 あかずきんの後に書いたので、思わずあかずきんのピュアさが懐かしくなりました… back |